【2019-4】(2章まで)ジャン=リュック・ナンシー「無為の共同体」を読んでいる

経緯

次世代の共同体について考えている一環 

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

 

 

難解っぽく書かれているものでも私的理解の表出を恐れない気持ちが大事と思っている。

殴られるのは怖いが人生は短いため、必要ならどんどん殴って欲しい。

 

私的要約

■1章 無為の共同体

特異存在の有限性はそれらに内在するものではなく、他の特異存在との境界面たるコミュニケーションにおいて、分有され、<共同での存在>そのものとして共出現する。

共同体とはこの共出現する有限性そのものであり、集団的主体ではない。(追記)

「政治的なもの」が共同体の構制を示しているとすれば、それは共同体の分有を意図的に遂行するものである。 

 

(※見直したら素朴に無為の共同体ってなによ?と言われそうと思ったため追加)

 

■2章 途絶した神話

神話はそれ自体を構成する言語でありコミュニケーションである。よって神話と共同体は互いを無媒介に生み出す。

神話はその語の中に定礎は虚構である、虚構は定礎であるという意味を同時に含んでおり、自己により途絶している。

(※平易に例示すると、「神話は虚構の定礎であるー神話とは、かりそめの原理原則にすぎないーといったとき、これはわれわれの神話に基づく像である。」ということ。)

神話とは、自然としての人間、人間としての自然について表象を与える非感覚的像、超越論的自己形象化である。この意味においてもまた異なる途絶がある。

政治的なものとは、この途絶の間にある潜存在へ働きかける意思である。

(※潜存在=力は後者においては神話が表象を与える過程のことであると推察されるが、前者において何を指すかはまだ未検討。)

神話の途絶の中で、古き神話の朗唱以外に、言表することなく、共同での存在の神話なき真理を発する声が文学である。

文学は何かを開示せず、合一へ至らせるへ営みではない、共同での存在を言外に発することで、コミュニケーションが生起する場としての限界を露呈する試みである。

われわれは文学の分有により、共同体に関する共通理解などなく、分有をなさず、分有は共同での存在への支配力を与えないということを理解する。

 

―――

疲れたので一旦おやすみ。

 

書くと言語的に認知できる形で読み取ろうという意思が働いて、よさそうな気はする。

 

哲学は全然知らないわけではないが専門ではないので、各言語の定義レベルでは知っているが、定番でもほとんど押さえていない。現状は哲学研究するのではなく使えそうな議論をツールとしてインストールする目的で、他のものとの優先順位もあるため、どういうときに遡って押さえにいくか難しい。とりあえず現状はさすがに読まないと致命的欠落だと思ったときに遡る方針で読んでいる。