【ネタバレ】「天気の子」感想 - 危険なシュガーグレーズド・アンチソーシャル

 「天気の子」を見た。 

 結論から言うと非常に危険な作品であると思った。

 美麗なグラフィックとジュブナイルで安全にコーティングされた反社会性は自然に若者の脳髄へインストールされ、やがて来る社会との対峙において彼ら・彼女らを狂気へと導く危険性を孕むのではないだろうか。

 

 「天気の子」は、要するに主人公が社会的妥当性と自分の気持ちという2択において、自分の気持ちを選択しつづけ、なんか色々あって結局ヒロインと結ばれるといった物語である。

 社会と自分が対立したとき、自分の気持ちを選んでも良いというメッセージ自体は悪いものではない。社会と自己の板挟みになっている人々の救いになることもあるだろう。

 

 それでは何が問題であったか。それは、主人公の選択が良い方向へ転ぶプロセスが、徹底して全くの偶然として描かれていたことである。

 

 作中にて、主人公は社会に属するものを拒絶し続けるが、そのたびに全くの偶然に救われて問題が解決していく。下記に例を挙げよう。 

 ・東京へと家出する(地縁・共同体の拒絶)。偶然の縁によって居場所を獲得する。

 ・ヒロインを女衒から救い出す(資本主義の拒絶)。偶然拾った銃によって救出に成功 し、偶然ヒロインが持っていた能力によって金策に成功する。

 ・警察から逃げる(法の拒絶)。偶然警察が油断したり、泊まれるホテルが見つかったりする。

 

 このような表現は、「社会と自己が対立した際、ナイーブに気持ちに従うのみにより、結局は上手くいく」というような誤ったフィードバックの学習を促進する。(誤ったというのは倫理・規範といった価値判断の話ではなく、現実と乖離していることのみを指している。)

 その上この学習は、爽やかで美麗なグラフィックと、対立する社会側を融通の利かない邪魔者のように表現する描写によって、その反社会性に対して、あたかも正当で無害なものであるかのようにコーティングされた上でなされるのである。

 このような学習をした少年は、やがて社会に直面したとき、自らの気持ちを優先した結果、なんらかの問題に直面するだろう。そして「自らの心に従った結果、なんやかんや幸運があって結果そこそこいい感じになる」という「正しい」願望と現実との大きな認知不協和によってすり潰され、やがて現実から目を逸らしてしまう危険性がある。

 

 ここで私は、現実と異なることや、反社会的であることそれ自体を問題を糾弾したいわけではない。私個人も社会で正しいとされる価値観の多くにはなじめないし、各個人が各々の主観として幸せに生きられるのであれば倫理や規範に囚われる必要はないと考える側の人間である。

 

 そうではなく、現実として不幸になる確率の高い、自分に害を及ぼす期待効用の形式であることを問題としている。社会に受容されない思考を持ったとき、それを社会の圧に負けず貫くこと自体は私も非常に素晴らしいことだと思うし、ぜひ皆にそのようにして欲しいと思う。しかし、それをただ主張するだけではむしろ社会の圧力に強く押し潰され破壊されてしまうだけである。

 

 現実において社会の圧に負けず、反-社会的な思考を貫くためには、大衆を扇動する、自ら何らかの力を獲得する、論理武装する…手法は何でも良いが、何らか社会と戦う、もしくは折り合いをつけるための方策を練る必要があるだろう。どんな方法でも良いが、主人公が主体的に思考し社会のルールを使って戦略的に社会に勝利する。このようなプロセスを描写すれば、危険度はだいぶ下がるだろう。

 

 環境が許すのであれば、子供に子供のままでよいということは悪いことではないかもしれない。しかし、現実はそうではない。

 良い大人になれ、とは言わない。悪い大人でも、ダメな大人でも、どんな形でもいいから大人になれ。一時ではなく、真なる安寧を与えるためには、そう伝えてやる必要があるのではないだろうか。